ソユーズ1号 1967年4月 帰還時の失敗

1967年4月23日、ソ連の新しい宇宙船ソユーズ1号がバイコヌール宇宙基地から打ち上げられました。搭乗していたのはウラジーミル・コマロフでした。コマロフは1960年に宇宙飛行士に選抜されました。1964年にボスホート1号で初飛行をしており、これが2回目の宇宙飛行でした。コマロフは世界初の有人宇宙飛行を行ったユーリー・ガガーリンの親しい友人でもありました。

打ち上げは順調に行われましたが、すぐにトラブルが発生しました。2枚の太陽電池板のうち左側の1枚が開かず、十分な電力が得られなかったのです。おまけにスターセンサーが働かず、姿勢制御ができない状態でした。宇宙船は制御不能におちいりました。コマロフは宇宙船のコントロールを回復しようと試みましたが、うまくいきませんでした。

ソユーズ1号は翌日に打ち上げられるソユーズ2号とドッキングすることになっていました。月への飛行に必要なドッキングと船外活動による宇宙飛行士の移乗をテストするためでした。しかし、ここにいたって、ソユーズ2号の打ち上げはキャンセルされ、コマロフは緊急帰還することになりました。

コマロフはなんとか宇宙船の姿勢を制御し、大気圏突入を成功させました。しかし降下の最終段階で問題がおこりました。メインパラシュートを引き出すためのドラッグシュートがからまってしまったのです。そのため、メインパラシュートは開きませんでした。宇宙船は地上に激突し、コマロフは宇宙飛行で死亡した最初の人間となったのです。

http://blog.scienceweb.jp/?eid=48

ソユーズ11号 1971年6月 船内の空気が失われ窒息

ソ連の3人乗り宇宙船「ソユーズ11号(Союз-11/Soyuz 11)」が、1971年06月06日にバイコヌール・コスモドローム(Baikonur Cosmodrome, Kazakhstan)から打ち上げられ、世界初の宇宙ステーション、サリュート1号(Салют-1/Salyut 1)へのドッキングに初めて1971年06月07日に成功したが、帰還途中で大気圏再突入の準備中に宇宙船内の空気が失われ、1971年06月30日に搭乗していたゲオルギー・ドブロボルスキー、ボストーク(Vostok/Восток)とボスホート(Voskhod/Восхо́д)の開発に携わったウラディスラフ・ボルコフ、サリュート1号から望遠鏡オリオン1を操作し、地球の大気圏外で望遠鏡を操作した最初の人物だったビクトル・パツァーエフの3人全員が窒息死した。

ソユーズ11号の3人は、22日間滞在した。ソユーズ11号の3人は、サリュート1号に乗り移ると、煙臭い、焦げた匂いに気づき、次の日は換気システムの修理に費やし、空気が清浄になるまでソユーズで待機することになった。サリュート1号では、テレビの生放送なども行ったが、11日目に火災が発生して、ステーション滞在は1週間短縮された。

1971年6月30日に、再突入カプセルは計画通り大気圏再突入をしたように見えたが、カプセルを開けると3人が死亡していた。

https://time-az.com/main/detail/55985

スペースシャトル・チャレンジャー号 1986年1月 発射後すぐの爆発事故

チャレンジャー号は、テストのみで終わったエンタープライズ号に次いで2番目に製造され、宇宙航行に耐えうる初のスペースシャトルでした。

事故はものすごい速さで起こりました。発射からたった58秒後のことでした。初めは固体ロケットモーターの右側に小さな火が光り、68秒後には外部タンクから炎が噴き出し始めます。73秒後にはすべてのエンジン温度が上限に達し、自動でシャットダウンしています。78秒後には、排気トレイルは爆発して炎、煙などに変わっていきます。爆発は機体の破片をいろんな方向へ飛ばし、左翼、乗員室のある上部胴体、そして推進剤がまだ燃え続けるメインエンジンを破砕しました。結局7名の乗組員全員が亡くなりました。

ゴム製のシールが寒さによってもろくなっていたことが原因でした。通常、柔軟なOリングは右側固体燃料補助ロケットで破裂すると、高温ガスが漏出し始めます。このことは、1977年から確認されていたにもかかわらず、対処されることがないままでした。チャレンジャー号の事故時には、この高温ガスが溶接機のように接合部を焼き、外部タンクを切断してしまいました。

1月28日はチャレンジャー号の爆発事故の日でもあり、またNASAでは宇宙飛行のために亡くなったすべての人々を追悼する日となっています。

https://www.gizmodo.jp/2016/02/post_663933.html

スペースシャトル・コロンビア号 2003年2月 帰還途中で空中分解

2003年2月1日、世界に衝撃が走りました。7名の宇宙飛行士(Rick D. Husband, William C. McCool, Michael P. Anderson, David M. Brown, Kalpana Chawla, Laurel Blair Salton Clark, Ilan Ramon)が搭乗して地球へ帰還途中であったスペースシャトル コロンビア号が空中分解事故に逢いました。数日前の1月28日には、アポロ1号火災事故とチャレンジャー号爆発事故の追悼として、宇宙飛行士そして地上支援要員が黙とうを捧げたばかりでした。

徹底的な事故調査が進んで事故原因は断定されています。事故発生の16日前の打上げ日(1月16日)、打上げから81.7秒後に外部燃料タンクから剥落した書類カバンほどの発泡断熱材の破片が左翼に直撃したことが確認されました。左翼前縁における強化炭素複合材(RCC: Reinforced Carbon-Carbon)の熱防御システムが破損し、地球帰還時の大気圏再突入にて生じる空気摩擦によって、超高温のプラズマが左翼前縁に侵入し、徐々に翼内部のアルミニウム構造を溶かしました。構造の強度が低下して翼を失い、大気抵抗の増加に伴って飛行を制御できなくなり、コロンビア号の機体は空中分解しました。

委員会の医学グループは、クルーの死因及び時期について推定を行っています。構造破壊を伴う大気圏突入において、コロンビア号の居住区が経験した加速レベルは致命的にはなりませんでした。居住区が残存してる期間にクルーは生存しており、居住区が破壊によって死因は外傷及び低酸素症と推定されました。

https://team.hatenablog.jp/entry/2018/12/11/090047

アポロ1号 1967年1月 地上訓練中の火災事故

1967年1月27日、3名の宇宙飛行士、ガス・グリソム氏、エドワード・ホワイト氏、ロジャー・チャフィー氏が命を落とすという悲劇が起こりました。3名は与圧宇宙服を着て、プラグ切り離しテストのために指令船内にいました。そして、2度目のチェックリスト確認中に出火。船内は純酸素で満たされていたため炎は大きくなり、気圧の上昇によりカプセルの壁が破壊されました。煙が地上作業員たちに押し寄せ、破片で怪我をした人もいました。26秒の間、恐怖に包まれた地上チームには中からの叫び声が聞こえ、そしてカメラの画面は火柱でいっぱいになったそうです。

電気火災とグリソム氏、ホワイト氏、チャフィー氏3名の犠牲が出たことで、NASAは探査プログラムの改善と安全性の優先に乗り出します。アポロ1号の事故後、テスト計画、製造工程、品質管理などと一緒にドアも再設計されました。

https://www.gizmodo.jp/2016/02/post_663928.html

ニェジェーリンの大惨事 1960年10月 試験打上げ時の爆発

1960年10月24日にバイコヌール宇宙基地でソビエト連邦の大陸間弾道ミサイルR-16の試験打上げ時に発射台上で発生した事故である。

試作ミサイルの試験飛行のため発射台で準備が行われている間、誤って二段目のロケットエンジンが着火した。結果として地上で大規模な爆発に至り、多くの軍人や技術者等が犠牲となった。公式の発表では死者90人であったが、実際には最大で150人程度に上り、一般的にはおそらく120人程度と推定されている。災害の規模にも関わらず、この事故のニュースは長年にわたり隠蔽され、ソビエト政府も1989年まで認めていなかった。初代ソ連戦略ロケット軍総司令官でR-16開発計画の責任者だったミトロファン・ニェジェーリン砲兵総元帥もこの事故に巻き込まれて死亡したため、このような名前が付いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%A7%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%83%A8%E4%BA%8B

長征3B型1号機 1996年2月 打ち上げ直後に墜落

1996年2月14日には、インテルサット708を搭載し西昌衛星発射センターより打ち上げられた長征3B型1号機が打ち上げ直後に機体が傾きだしコントロールを失い、そのまま近くの村に落下した。新華社はその後報道で死亡者6名、負傷者57名と発表した。しかし当時撮影された墜落現場の映像youtubeや目撃証言などから、西側メディアの推測では死亡者は推定200~500人で、史上最大の惨事をもたらしたとされる。中国政府は否定しており、真相は明らかになっていない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%BE%81_(%E3%83%AD%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88)#%E6%89%93%E3%81%A1%E4%B8%8A%E3%81%92%E4%BA%8B%E6%95%85

プレセツク宇宙基地 1980年3月 発射台が爆発

この事故は、ロシア宇宙開発史上、最大の犠牲者を出した。ロシア北部のプレセツク宇宙基地の発射台が爆発し、48人が死亡。

事故前のロケットの点検では、問題は発見されなかった。ところが、ロケットの燃料注入中に火災が発生し、数十トンの燃料が燃え始めた。不幸中の幸いだが、燃料を積んだ複数のトラックを発射台付近から退避させることができた。

火災で44人が亡くなり、しばらくして負傷者4人が死亡。国家委員会は、火災の責任は、燃料注入の担当者にあるとした。だがその16年後、独立事故調査委員会が、火災の真の理由は、彼らではないことを突き止めた。第3段の過酸化水素タンクのフィルターに不適切な材料を用いたことが原因で、化学反応が暴走し、火災、爆発にいたった、と独立事故調査委は結論している。

https://jp.rbth.com/history/79627-soviet-uchu-kaihatsu-no-rimen